NHK大河ドラマ「平清盛」。

色々不満も出ていますが、送り手側にも、相応の考えや理由が有る様子です。


・「演出家のこだわり。」チーフ演出 柴田岳志インタビュー:大河ドラマ平清盛
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/special/dr/index.html
平清盛が生きた平安末期というのは、天災による飢きんが続き、それまでの貴族政治も行き詰まり、先の見えない時代。》
《優雅できらびやかな平安だけではなく、みんなが必死で生きようと遮二無二(しゃにむに)なっていた“たくましい平安”をダイナミックに、生々しく、リアルに描きたいと思っています。》


 「王家」云々についても、アイコクシャの皆さんが絶叫されてるご様子ですが、ざっと調べてみました。

 「天皇家」は、歴史学用語で、当時は存在しなかった様です(むしろ、「左翼」系が使いたがる用語かも)。
 「皇室」は、戦後から盛んに使われだした言葉で(戦前は「帝室」とも)、当時は、使用されていても数例程度の稀なものでした(「王室」という言い方も有った様です)。
 尚、「朝廷」や「朝家」ですと、つまり「政府」の意です。これは、官職に就いている貴族まで含めます。


 「王家」の、古文献における用例(以下年代順)。

古い時代
・『大宝令』(701年)
・『養老令』(757年)
・『聖徳太子伝暦』(917年、藤原兼輔
・『続日本紀』(797年)の巻第十二 「或真人。或朝臣。源始王家。」

同時代
・『玉葉』(1164〜1200年、九条兼実
・『紀伊国大伝法院衆徒改案』治承二年(1178)六月「夫王家之為王家(中略)任王家之帰依」 (『平安遺文』収録 3837号文書) 
「王家(現在でいう皇族)が王家であるのは仏法の擁護があるからだ。仏法が仏法であるのは王家が帰依しているからだ」と有ります。

後年
・『壬生家文書』の正応5年7月27日条「王家衰微莫大」1292年
・『吾妻鏡』(1300年頃)
・『平家物語』(1309年以前)
・『花園天皇宸記』(1310〜32年)
元弘元年(1331)別記十月一日条
「王家之恥何事如之哉、天下静謐尤雖可悦、一朝之恥辱又不可不歎」
「これ以上の王家の恥はない。(後醍醐天皇が捕えられて)平和になるのは喜ばしいが、この時の恥を歎かずにいられない」

 南北朝時代花園天皇自らが「王家」と呼んでいます。
 後醍醐上皇のことを「王家の恥」と言っています。
 後醍醐は前の天皇で、天皇上皇も含めた一族を指して「王家」と呼んでいることが判ります。

・『神皇正統記』(1339年、北畠親房)では 「皇家」、「王家」
・『太平記』(1368〜1379年ころ) 「都に王といふ人のましまして」



 当時の用語として、「王家」以外に例が有るもので、現代の感覚的に違和感が無いのは、「皇家」とかですかね。
 そもそも、平安末期当時、現在の様な「皇室」「天皇家」に該当する概念自体が無かったのではないかと言う意見も有りますね。

 私見ですが。
 NHKの大河では、天皇・皇族を主人公とした物は、題材として面白くても、作り辛いとか聞きました。
 えげつない要素てんこ盛りですし。所謂「菊タブー」が有りますし。実際、このドラマでもそうでしたし(当時の皇族の誰々を、あんな風に醜く描くとはけしからんて意見も有りましたが、史実だからしょうがない)。
 その兼ね合いも合って、現代の皇室と区別する為、敢えて、現代では一般的に馴染みの無い「王家」を採用したのではという気もします。


 「天皇家の犬」
 「皇室の犬」
 こっちの方が、余程、マズいざんしょ?w

 

其の他 参考
・中世の天皇の位置付けってどうだったのか?
http://mimizun.com/log/2ch/history/1059391872/

 2003年の夏頃からの掲示板です。
 用語としての《王家》にも、詳しく触れています。



 その後、某所とのやり取りにて。
 或る方が、「【勤王】とかはどうなのか」というツッコミに対し、以下の様なに答えられました。

 《「王政」「勤王」は、儒教の言葉なんです。始皇帝より前の時代に出来た言葉ですので、王を使っているんです。
徳川幕府を「覇道」、天皇を「王道」と言いましたが、このどちらも儒教の言葉で、これらの「王」は、皇帝も王もすべて含みます。》
 

 なるほど、と思いましたよ。
 『儒教的教養に基づいた上で』、と言う事だったら、平安末期当時の院と天皇とその一族・門閥勢力を、漠然と指す呼称としての「王家」という用語は、当時もそして現在も、何もおかしくなくなります。
 解答としてエレガントであるので、ここに記述しておきます。




■薄汚れた画面…大河「平清盛」を兵庫知事が批判
(読売新聞 - 01月10日 18:52)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1872825&media_id=20
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120110-OYT1T01017.htm

《 8日に始まったNHK大河ドラマ平清盛」の視聴率が低かったことについて、兵庫県井戸敏三知事は10日の記者会見で、「鮮やかさがなく、薄汚れた画面ではチャンネルを回す気にはならないというのが第一印象」と述べた。


 県内には、清盛が日宋貿易の拠点として整備した大輪田泊(おおわだのとまり)や遷都した福原京などがあったことから、県は観光客誘致のキャンペーン中。今後の展開次第ではNHKへの改善申し入れも検討するとしている。

 自宅で初回を見たという井戸知事は「うちのテレビがおかしくなったのかと思うような画面だった」と、色彩を抑えた映像などを批判。さらに、「時代考証は史実に忠実にするとの方針は聞いているが、時代考証を学ぶために見るのではない」とし、「公家社会打破のエネルギーや、日本の将来を先取りした人物像を正面に据えていただきたい」と注文を付けた。

 NHK広報部は「映像表現の進歩で、ドラマはリアルさを追求する方向に進んでおり、それを望む視聴者も多い。清盛の成長に合わせ、貴族社会の華やかな映像も出てくるので、今後を楽しみにしてほしい」としている。

(2012年1月11日07時30分 読売新聞)》

色々不満も出ていますが、送り手側にも、相応の考えや理由が有る様子です。


・「演出家のこだわり。」チーフ演出 柴田岳志インタビュー:大河ドラマ平清盛
http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/special/dr/index.html
平清盛が生きた平安末期というのは、天災による飢きんが続き、それまでの貴族政治も行き詰まり、先の見えない時代。》
《優雅できらびやかな平安だけではなく、みんなが必死で生きようと遮二無二(しゃにむに)なっていた“たくましい平安”をダイナミックに、生々しく、リアルに描きたいと思っています。》


 「王家」云々についても、アイコクシャの皆さんが絶叫されてるご様子ですが、ざっと調べてみました。

 「天皇家」は、歴史学用語で、当時は存在しなかった様です(むしろ、「左翼」系が使いたがる用語かも)。
 「皇室」は、戦後から盛んに使われだした言葉で(戦前は「帝室」とも)、当時は、使用されていても数例程度の稀なものでした(「王室」という言い方も有った様です)。
 尚、「朝廷」や「朝家」ですと、つまり「政府」の意です。これは、官職に就いている貴族まで含めます。


 天皇の一族を指す「王-」(「王家」、「王氏」など)の、古文献における用例(以下年代順)。

古い時代
・『大宝令』(701年)
・『養老令』(757年)
・『聖徳太子伝暦』(917年、藤原兼輔
・『続日本紀』(797年)の巻第十二
天平八年(七三六)十一月丙戌【十一】》
【○丙戌。従三位葛城王従四位上佐為王等上表曰。臣葛城等言。
天平五年。故知太政官事一品舍人親王。大将軍一品新田部親王宣勅曰。聞道。諸王等、願賜臣連姓。供奉朝廷。
是故、召王等、令問其状者。臣葛城等、本懐此情。無由上達。幸遇恩勅。昧死以聞。昔者。
軽堺原大宮御宇天皇曾孫建内宿禰。尽事君之忠。致人臣之節。
創為八氏之祖。永遺万代之基。自此以来。賜姓命氏。或真人。或朝臣。源始王家。流終臣氏。】

同時代
・『玉葉』(1164〜1200年、九条兼実
・『紀伊国大伝法院衆徒改案』治承二年(1178)六月「夫王家之為王家(中略)任王家之帰依」 (『平安遺文』収録 3837号文書) 
「王家(現在でいう皇族)が王家であるのは仏法の擁護があるからだ。仏法が仏法であるのは王家が帰依しているからだ」と有ります。
・『門葉記』建永元(1206)年「僧徒併祈奉王家之泰平」
・同 承元二(1208)年二月「然則天下四海為其静謐、王家三宝因之栄盛」

後年
・『肥後大慈寺文書』正応元(1288)年七月「宜奉祈王家紹隆仏法者、院宣如此」
・『壬生家文書』の正応5年7月27日条「王家衰微莫大」1292年
・『吾妻鏡』(1300年頃)
・『平家物語』(1309年以前)
「平の姓を給て、上総介になり給しより、忽に王氏を出て人臣につらなる」
・『花園天皇宸記』(1310〜32年)
元弘元年(1331)別記十月一日条
「王家之恥何事如之哉、天下静謐尤雖可悦、一朝之恥辱又不可不歎」
「これ以上の王家の恥はない。(後醍醐天皇が捕えられて)平和になるのは喜ばしいが、この時の恥を歎かずにいられない」

 南北朝時代花園天皇自らが「王家」と呼んでいます。
 後醍醐上皇のことを「王家の恥」と言っています。
 後醍醐は前の天皇で、天皇上皇も含めた一族を指して「王家」と呼んでいることが判ります。

・『公衡公記』正和四(1315)年八月十日条「未忘忠於王家」
・『神皇正統記』(1339年、北畠親房)では 「皇家」、「王家」
・『太平記』(1368〜1379年ころ) 「都に王といふ人のましまして」



 当時の用語として、「王家」以外に例が有るもので、現代の感覚的に違和感が無いのは、「皇家」とかですかね。
 そもそも、平安末期当時、現在の様な「皇室」「天皇家」に該当する概念自体が無かったのではないかと言う意見も有りますね。

 私見ですが。
 NHKの大河では、天皇・皇族を主人公とした物は、題材として面白くても、作り辛いとか聞きました。
 えげつない要素てんこ盛りですし。所謂「菊タブー」が有りますし。実際、このドラマでもそうでしたし(当時の皇族の誰々を、あんな風に醜く描くとはけしからんて意見も有りましたが、史実だからしょうがない)。
 その兼ね合いも合って、現代の皇室と区別する為、敢えて、現代では一般的に馴染みの無い「王家」を採用したのではという気もします。


 「天皇家の犬」
 「皇室の犬」
 こっちの方が、余程、マズいざんしょ?w

 

其の他 参考
・中世の天皇の位置付けってどうだったのか?
http://mimizun.com/log/2ch/history/1059391872/

 2003年の夏頃からの掲示板です。
 用語としての《王家》にも、詳しく触れています。



 その後、某所とのやり取りにて。
 或る方が、「【勤王】とかはどうなのか」というツッコミに対し、以下の様に答えておられました。

 《「王政」「勤王」は、儒教の言葉なんです。始皇帝より前の時代に出来た言葉ですので、王を使っているんです。
徳川幕府を「覇道」、天皇を「王道」と言いましたが、このどちらも儒教の言葉で、これらの「王」は、皇帝も王もすべて含みます。》
 

 なるほど、と思いましたよ。
 『儒教的教養に基づいた上で』、と言う事だったら(「仏教的教養」も有り得ますかね)、平安末期当時の院と天皇とその一族、それらの門閥勢力を、漠然とまとめて指す用語としての「王家」は、当時としても、そして現在も、何もおかしくなくなります。
 この問題への解答として、まことにエレガントであるので、ここに記述しておきます。




■薄汚れた画面…大河「平清盛」を兵庫知事が批判
(読売新聞 - 01月10日 18:52)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1872825&media_id=20