吉田昌郎氏は原発事故の戦犯である。

2008年当時、東京電力社内で、福島第一原子力発電所に想定超過の津波が来る可能性を示す評価結果が得られた際。
吉田氏が部長であった、本店の原子力設備管理部は、危険性を過小評価し、対策を怠った。
原発設備を統括する部署であり、相応の責任を負うであろう。

http://megalodon.jp/2012-0304-0051-13/www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20111128/dms1111280716000-n1.htm
http://mainichi.jp/select/news/20130710k0000m040065000c.html

炉心溶融 : 吉田所長の失敗 (要約)2012年10月号:文芸春秋から― 全電源喪失、給水停止、そして相次ぐ想定外の事態。福島原発で本当に起こっていたことは ―原発事故報告(私の最終報告書) 柳田邦男:ノンフィクション作家
http://watasumu.web.fc2.com/05ShizenKa/121013_NPS_Yanag.pdf

《どの建屋も浸水防護対策はないに等しかった。構造の弱い扉は簡単に破壊された。低い位置の換気口は海水の恰好の侵入口だった。建屋の中に侵入した海水はあらゆる開口部や隙間から、地下へなだれこんだ。

一階や地下には、非常用ディーゼル発電機や配電盤など重要設備があり、ディーゼル発電機が使えなくなった場合に備えた125V直流の大型蓄電池もある。それらは物理的に壊されなくても、水に濡れただけで機能麻痺に陥る。

原発の安全性を確保するため、それらを配置する部屋は、水の侵入を絶対的に遮断するいわゆる“水密性”が不可欠の設計条件になる。
欧米は洪水に備え、原発の重要設備を配置する部屋の水密性を重視している。
しかし、日本では地震津波の大国なのに、“水密性”を重視してこなかった。
いや、意図的に津波は来ない、大津波対策は考えなくてよいという「思考停止」の枠組みが作られていた。
水密化の欠落は、まさに思考停止の恐ろしさをまざまざと示したものだった》


防災対策面では、間違い無く、安倍晋三同様、戦犯の1人。
吉田氏を悲劇の英雄扱いし、東電、ひいては国の、クッソいい加減な原発関連の問題点を誤魔化しては成らない。

吉田昌郎の屍を吊るせ。
東電と自民党経済産業省等々の戦犯どもと共に、高く高く吊るせ。




・福島第1の元所長 吉田氏が死去
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0903O_Z00C13A7000000/
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=2497558
《2013/7/9 17:08 (2013/7/9 19:41更新)

 2011年3月の東日本大震災の際、東京電力福島第1原子力発電所の所長として原発事故の収束作業を現場で指揮した吉田昌郎(よしだ・まさお)氏が9日午前11時32分、食道がんのため東京都内の病院で死去した。58歳だった。告別式の日取りなどは未定。

 10年6月に福島第1原発所長に就任。原発事故では、現場のトップとして主に原発敷地内の免震重要棟で作業を指示した。原子炉格納容器が水素爆発するのを防ぐため窒素ガス注入を指示する本店幹部に対し「そんな危険なこと作業員にさせられるか」などと食ってかかることもあった。原子炉を冷却する海水の注入中断を東電本店から指示されたが、注水を続けた。

 事故後初めて報道陣の取材に応じた11年11月には、「3月11日から1週間は死ぬだろうと思うことが数度あった。炉心溶融がどんどん進み、コントロール不能になる。終わりかなと思った」と語っていた。

 一方、原子力設備管理部長だった08年、東電社内の検討で第1原発に最大15.7メートルの津波が押し寄せるとの試算が出たが、吉田氏らは「実際には来ない」と考え、対策は取られなかった。

 食道がんと診断され、11年11月に入院。翌12月に所長を退任した。昨年7月には脳出血を起こし、療養を続けていた。

 東電によると、吉田氏が原発事故後に浴びた放射線量は計約70ミリシーベルト。東電はこれまで「被曝(ひばく)が原因で食道がんを発症するには少なくとも5年はかかるとされており、事故による被曝が影響した可能性は極めて低い」との認識を示している。》