心神耗弱と法治
この件で義憤に駆られておいでの皆さんは、以下をご参考にどうぞ。
“国は「社会復帰のための手厚い医療」と言っていますが、実際には「治安のための長期拘束」になる可能性が否定できません。既に対象疾患を治療効果が期待しがたい人格障害、発達障害、認知症にまで広げようという動きがあります。大変危険な動きです。
医療観察法の拡大適用がなぜ危険なのかというと、保安処分の対象者が際限なく拡大されて乱用される危険が拭いきれないからです。”
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乱用の件は、それはそれで大問題と思いますが、まあ、こういう事も有るって話でした。
加藤容疑者は、よしんば心神耗弱で罪からは逃れても、簡単に自由にはなれないかと存じます。
それと、近代国家の「法治」の元では、人間の「責任能力」てものが、厳正に重要視されるのです。
例えば、10歳児が、どんな凶悪犯罪を引き起こしても、極刑にはなりません。
「法治」ではないと、「人治」です。
「徳」とか「正義」とかが支配する世の中になります。
その「徳」や「正義」の何たるかは、結局、権力者が恣意的に決めるのです(尚、当方は、責任の有る立場の人間による、法の容認する範囲内での裁量を、全否定するものではありません)。
そういう体制は、時として無情な法治よりも、かえって、害悪が多いのです。
「自分の身内が殺されても同じ事が言えるのか」と叫ぶ皆さん。
自分の身内が権力に不当に危害を加えられても、同じ事が言えますか?
・加藤被告弁護側 死刑回避訴え
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