空襲被害者の全国組織 発足へ 救済法制定を求めて
特に、戦後生まれの、「愛国」を語る方々が、本物か否かが問われます
かつて国難の時期に国を支え、今日の繁栄の礎となり、にもかかわらず、然るべく報われていない方々に対し、感謝と共感を持てるか否か。
その人たちが踏み躙られ続けた現実に対し、義憤を持てるか否か。
我々が暮らす日本は、その「公」的な諸々は、我々の世代で、急に発生したものではありません。
無数の先人達の長い間の積み重ねの結果です。
それには当然、戦中の皆さんの献身と犠牲も含まれます。
そして、正の遺産を引き継ぎ、その恩恵を被っているからには、場合によっては、負の遺産をも引き継がなければならないのです。
「現在の若い世代の知ったことか」などと、言ってはならないのですよ。「日本人」ならば。
当時、国を誤った「A級戦犯」達の名誉は大事でも、外国で民間人や捕虜への虐殺や略奪を行った旧軍将兵達は日本側の史料をすら無視してでも庇えても、無数の一般戦災者(無辜の子供含む)の尊厳は無視して良いとすれば、どんだけの事大主義だと。
自分の偏狭で低劣な利己主義を仮託する対象としての「日本」なのかと。
尚、ご存知ではない人も多い様なので、記述しておきます。
1.戦後、サンフランシスコ平和条約で、日本は、旧敵国の戦争犯罪などへの賠償請求権を、放棄しています。
2.戦中、日本帝国政府は、「防空法」という法律を作り、一般人に、空襲の際の避難を禁じ、訓練を受けた消防士でも危険な消化活動への参加を強制し、結果、多大な被害を出しています。
参考
「防空法制下の庶民生活7 退去を認めず」
http://www.asaho.com/jpn/sansei/122.html
3.戦争の結果、一般市民に出た被害を補償する「戦時災害保護法」という法律が、当時の「有事法制」の一環として存在していましたが、戦後、GHQの指図により廃止されました。
住宅焼失は350円、負傷は治療全額補償がなされていました。
参考
「過去と未来の間」
http://comrade.at.webry.info/200602/article_25.html
当時のことですから、完全な履行はされて居ませんが、それでも約7億円が支出され、200万人弱の方々が対象になったようです。
参考
「東京都平和祈念館(仮称)についての要望書」
http://space.geocities.jp/japanwarres/center/hodo/hodo01.htm
以前の日記にて、ご来訪の方にご教示戴いた事ですが。
"戦時災害保護法施行令(第18条)"に、「扶助金や給与金(いわゆる補償)を受けるためには被害を受けた日から2年以内に申請する必要がある」という条項があります。
生活保護法の公布により、戦時災害保護法の廃止が決定されたのが1946年9月。
それから2年前ですと、1944年9月です。
本土空襲が本格化する前です。
多くの空襲被災者が、未だ申請期間を満了しないうちに、戦時災害保護法を廃止してしまったのです。
生活に追われ、或いは病院のベッドで寝ていたり、「未だ2年経っていないから大丈夫」と思っていたりで、貰い損ねた人なども、さぞ多かったことでしょう。
その後、同様に廃止されていた、軍人やその遺族を支援する法は復活しましたが(「国家保障の精神に基づき」と、条文に書いてあります)、戦時災害保護法は、廃止されたままです(一般戦災者と、通常の困窮者を、同列には出来ない筈ですが)。
似たような立場である、原爆の「被爆者」を支援する法も成立していますが(条文に拠れば、「人道」に基づいているそうです)、一般戦災者には、同様の配慮が有りません。
一般戦災者は、怪我はせずに済んだけど家を焼かれた、そんな人も含めると、1000万人にのぼった由ですが、上記の通り、戦時災害保護法は、被害者全員に然るべく手当て出来た訳ではありません(貧乏だった戦後まもなくはまだしも、その後は違うでしょう)。
尚、違う見方をすれば、被害者のうち2割もの人達が、その恩恵を被ったわけで、これは、所謂「受忍論」を成立させ難くしている筈です。
「有事法制」は、今日的な命題ともなっている訳でして、尚のこと、他人事ではありません。
一般戦災者への戦後の補償については、議会では、一応は議論も有ったようですが、実を結んでいないようです。
参考
「参議院会議録情報 第071回国会 社会労働委員会 第16号」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/071/1200/07107031200016c.html
総務省が、「一般戦災」のHPを最近になって作ったり、慰霊祭の参加者への交通費を出したりしている程度ですね。
その他、「全国戦災都市連盟」(現在の「太平洋戦全国戦災都市空爆犠牲者慰霊協会」)という組織が有り、議員も動かしていたようです。
姫路に立派な慰霊塔を造ったり、自治体に競馬・競輪の開催の権利を獲得させたり、相応の成果は出してはいるようですが、目的は都市復興であって、個人は対象外だった様です。
当方の関連日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=369613333&owner_id=631443
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1350811270&owner_id=631443
参考
・東京大空襲
http://www.geocities.jp/jisedainitakusu/index.html
・空襲被害者の全国組織 発足へ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1307995&media_id=2
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100813k0000e040029000c.html
《<空襲>「被害者連絡協議会」14日発足 救済法制定に期待
(毎日新聞 - 08月13日 12:43)
東京や大阪など空襲被害者の全国組織「全国空襲被害者連絡協議会」が14日、発足する。空襲死者は原爆を含み50万人を超えるとされるが、被爆者団体を除けば全国組織はなく、戦後65年の今年3月に救済法制定を求めて初会合を開き、準備を進めてきた。同じ県内に被爆地があり、あまり空襲被害が注目されてこなかった長崎県佐世保市や広島県呉市からも期待の声が上がっている。【森禎行】
協議会は、「東京空襲犠牲者遺族会」(星野弘会長)や、国に1人1100万円の損害賠償と謝罪を求めた東京大空襲訴訟(昨年12月請求棄却、控訴中)の原告団が今年春に呼びかけ大阪、名古屋、沖縄、佐世保、呉などの遺族会や被害者、空襲の歴史を調査研究する「空襲を記録する会」などの市民団体が参加する。
14日は東京都台東区民会館で結成集会を開く。空襲被害を受けた国民には、軍人や被爆者と異なり補償など救済する制度がなく、「空襲被害者等援護法」制定や犠牲者の被害実態の調査を求めていく。
◇「東京」が呼びかけ
「闇夜に光がさしたようだった」。佐世保空襲犠牲者遺族会の岩村秀雄会長(81)は、東京空襲関係者の参加呼びかけにすぐに賛同した。1945年6月の空襲当時、呉市に近い江田島の海軍兵学校にいて無事だったが、家族5人全員を失った。佐世保市内を捜し回り、途方に暮れて呉市に帰る途中、原爆投下3日後の広島市を通った。被爆者援護法の救済対象となる「入市被爆」になるが、証明するすべがなく申請をあきらめた。
75年に遺族会を結成。長崎市の被爆者団体と協力して歴代厚相(当時)や国会議員に陳情を重ねたり、戦後50年の95年には土井たか子衆議院議長あてに請願したりしたが、空振りに終わった。「自衛隊関係者の多い地元では今も『平和』を訴えづらい雰囲気がある。挫折ばかり感じてきた」と打ち明ける。
呉市の空襲の被害者で「呉戦災を記録する会」の朝倉邦夫代表(74)も「戦争被害を広く知ってもらう大きな契機になる」と期待する。広島原爆の救援活動で2次被爆した市民も多く、「空襲でも原爆でも戦争犠牲者の戦後は悲惨だった。一体となった声をあげてほしい」と話している。
◇国内の主な空襲(原爆を除く)◇
1945年 都 市 死 者
3月10日 東 京 約10万人
13〜14日 大 阪 約4000人
5月29日 横浜・川崎 約3800人
6月5日 神 戸 約3500人
9日 名古屋 約2100人
19〜20日 静 岡 約1700人
28〜29日 佐世保 約1200人
7月1〜2日 呉 約2000人》
特に、戦後生まれの、「愛国」を語る方々が、本物か否かが問われます
かつて国難の時期に国を支え、今日の繁栄の礎となり、にもかかわらず、然るべく報われていない方々に対し、感謝と共感を持てるか否か。
その人たちが踏み躙られ続けた現実に対し、義憤を持てるか否か。
我々が暮らす日本は、その「公」的な諸々は、我々の世代で、急に発生したものではありません。
無数の先人達の長い間の積み重ねの結果です。
それには当然、戦中の皆さんの献身と犠牲も含まれます。
そして、正の遺産を引き継ぎ、その恩恵を被っているからには、場合によっては、負の遺産をも引き継がなければならないのです。
「現在の若い世代の知ったことか」などと、言ってはならないのですよ。「日本人」ならば。
当時、国を誤った「A級戦犯」達の名誉は大事でも、外国で民間人や捕虜への虐殺や略奪を行った旧軍将兵達は日本側の史料をすら無視してでも庇えても、無数の一般戦災者(無辜の子供含む)の尊厳は無視して良いとすれば、どんだけの事大主義だと。
自分の偏狭で低劣な利己主義を仮託する対象としての「日本」なのかと。
尚、ご存知ではない人も多い様なので、記述しておきます。
1.戦後、サンフランシスコ平和条約で、日本は、旧敵国の戦争犯罪などへの賠償請求権を、放棄しています。
2.戦中、日本帝国政府は、「防空法」という法律を作り、一般人に、空襲の際の避難を禁じ、訓練を受けた消防士でも危険な消化活動への参加を強制し、結果、多大な被害を出しています。
参考
「防空法制下の庶民生活7 退去を認めず」
http://
3.戦争の結果、一般市民に出た被害を補償する「戦時災害保護法」という法律が、当時の「有事法制」の一環として存在していましたが、戦後、GHQの指図により廃止されました。
住宅焼失は350円、負傷は治療全額補償がなされていました。
参考
「過去と未来の間」
http://
当時のことですから、完全な履行はされて居ませんが、それでも約7億円が支出され、200万人弱の方々が対象になったようです。
参考
「東京都平和祈念館(仮称)についての要望書」
http://
以前の日記にて、ご来訪の方にご教示戴いた事ですが。
"戦時災害保護法施行令(第18条)"に、「扶助金や給与金(いわゆる補償)を受けるためには被害を受けた日から2年以内に申請する必要がある」という条項があります。
生活保護法の公布により、戦時災害保護法の廃止が決定されたのが1946年9月。
それから2年前ですと、1944年9月です。
本土空襲が本格化する前です。
多くの空襲被災者が、未だ申請期間を満了しないうちに、戦時災害保護法を廃止してしまったのです。
生活に追われ、或いは病院のベッドで寝ていたり、「未だ2年経っていないから大丈夫」と思っていたりで、貰い損ねた人なども、さぞ多かったことでしょう。
その後、同様に廃止されていた、軍人やその遺族を支援する法は復活しましたが(「国家保障の精神に基づき」と、条文に書いてあります)、戦時災害保護法は、廃止されたままです(一般戦災者と、通常の困窮者を、同列には出来ない筈ですが)。
似たような立場である、原爆の「被爆者」を支援する法も成立していますが(条文に拠れば、「人道」に基づいているそうです)、一般戦災者には、同様の配慮が有りません。
一般戦災者は、怪我はせずに済んだけど家を焼かれた、そんな人も含めると、1000万人にのぼった由ですが、上記の通り、戦時災害保護法は、被害者全員に然るべく手当て出来た訳ではありません(貧乏だった戦後まもなくはまだしも、その後は違うでしょう)。
尚、違う見方をすれば、被害者のうち2割もの人達が、その恩恵を被ったわけで、これは、所謂「受忍論」を成立させ難くしている筈です。
「有事法制」は、今日的な命題ともなっている訳でして、尚のこと、他人事ではありません。
一般戦災者への戦後の補償については、議会では、一応は議論も有ったようですが、実を結んでいないようです。
参考
「参議院会議録情報 第071回国会 社会労働委員会 第16号」
http://
総務省が、「一般戦災」のHPを最近になって作ったり、慰霊祭の参加者への交通費を出したりしている程度ですね。
その他、「全国戦災都市連盟」(現在の「太平洋戦全国戦災都市空爆犠牲者慰霊協会」)という組織が有り、議員も動かしていたようです。
姫路に立派な慰霊塔を造ったり、自治体に競馬・競輪の開催の権利を獲得させたり、相応の成果は出してはいるようですが、目的は都市復興であって、個人は対象外だった様です。
当方の関連日記
http://
http://
参考
・東京大空襲
http://
・空襲被害者の全国組織 発足へ
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《<空襲>「被害者連絡協議会」14日発足 救済法制定に期待
(毎日新聞 - 08月13日 12:43)
佐世保空襲犠牲者遺族会の岩村秀雄会長。後ろは犠牲者の氏名を記録する掛け軸=佐世保市の空襲資料室で7月
東京や大阪など空襲被害者の全国組織「全国空襲被害者連絡協議会」が14日、発足する。空襲死者は原爆を含み50万人を超えるとされるが、被爆者団体を除けば全国組織はなく、戦後65年の今年3月に救済法制定を求めて初会合を開き、準備を進めてきた。同じ県内に被爆地があり、あまり空襲被害が注目されてこなかった長崎県佐世保市や広島県呉市からも期待の声が上がっている。【森禎行】
協議会は、「東京空襲犠牲者遺族会」(星野弘会長)や、国に1人1100万円の損害賠償と謝罪を求めた東京大空襲訴訟(昨年12月請求棄却、控訴中)の原告団が今年春に呼びかけ大阪、名古屋、沖縄、佐世保、呉などの遺族会や被害者、空襲の歴史を調査研究する「空襲を記録する会」などの市民団体が参加する。
14日は東京都台東区民会館で結成集会を開く。空襲被害を受けた国民には、軍人や被爆者と異なり補償など救済する制度がなく、「空襲被害者等援護法」制定や犠牲者の被害実態の調査を求めていく。
◇「東京」が呼びかけ
「闇夜に光がさしたようだった」。佐世保空襲犠牲者遺族会の岩村秀雄会長(81)は、東京空襲関係者の参加呼びかけにすぐに賛同した。1945年6月の空襲当時、呉市に近い江田島の海軍兵学校にいて無事だったが、家族5人全員を失った。佐世保市内を捜し回り、途方に暮れて呉市に帰る途中、原爆投下3日後の広島市を通った。被爆者援護法の救済対象となる「入市被爆」になるが、証明するすべがなく申請をあきらめた。
75年に遺族会を結成。長崎市の被爆者団体と協力して歴代厚相(当時)や国会議員に陳情を重ねたり、戦後50年の95年には土井たか子衆議院議長あてに請願したりしたが、空振りに終わった。「自衛隊関係者の多い地元では今も『平和』を訴えづらい雰囲気がある。挫折ばかり感じてきた」と打ち明ける。
呉市の空襲の被害者で「呉戦災を記録する会」の朝倉邦夫代表(74)も「戦争被害を広く知ってもらう大きな契機になる」と期待する。広島原爆の救援活動で2次被爆した市民も多く、「空襲でも原爆でも戦争犠牲者の戦後は悲惨だった。一体となった声をあげてほしい」と話している。
◇国内の主な空襲(原爆を除く)◇
1945年 都 市 死 者
3月10日 東 京 約10万人
13〜14日 大 阪 約4000人
5月29日 横浜・川崎 約3800人
6月5日 神 戸 約3500人
9日 名古屋 約2100人
19〜20日 静 岡 約1700人
28〜29日 佐世保 約1200人
7月1〜2日 呉 約2000人》